木々の根に足を取られないよう慎重に歩いている一行の前から濃霧が立ちこんだ。視界が効かなくなり、キコリは歩みを止める。森の中を歩くことに慣れているキコリと云えども、濃霧の中では下手をすると方向を失いかけない。
太陽が昇り霧が晴れるのを待ったほうが良いかと考えていると、不意に何かの気配を感じ取った。濃霧によってはっきりと姿が見えないが、草を踏み締める足音でこちらに近づいてくることが分かる。こんな時間に出歩く人間など早々居ない。もしかしたら野性のポケモンか、はたまた例の事件の犯人かと思考を巡らせ、キコリは身構えた。
丁度その時、東に連なる山沿いから太陽が顔を覗かせた。その途端、あれほど濃かった霧が嘘のように晴れ始める。
足音をたてる主の姿があらわになると、思わずキコリは目を見張った。現れたのは空を見上げながら当惑しているコナーの姿。何かを一生懸命探しているようだった。
「おい、何をして居るんだ」
キコリが話しかけると、コナーは動きを止めてゆっくりと顔だけを向けた。それからすぐに回れ右をして脱兎のごとく逃げ出した。
まるで犯行現場を目撃されて逃げ出す犯人のように、素早い身のこなしであった。
「人の顔を見て逃げるな!」
キコリは憤慨してすぐさまコナーの後を追いかけた。しかし前方で音を立てて大きくこける逃亡者を見て走るのをやめた。木の根に足を躓けたコナーは痛そうに地面に這いつくばっているのを見てキコリは鼻で笑い飛ばす。
「慣れない森の中で走るからそうなるんだよ」
「なっなんでこんな時間にいるんですか!」
「それはこっちセリフだ。こんな朝早くなんの用で森入った?」
最近森に引っ越してきた住人が森にいることにキコリは訝しむ。まさか事件の犯人か、それに関わる人物なのかと思考が浮かんだ。
「そっそれは……」
言いづらそうにコナーは顔を上げると、目を丸くして虚空を見つめる。
「どうした?」
「ピヨン!」
突然変な言葉を叫びだし、キコリは面食らう。しかしコナーはお構いなしにとその場から立ち上がって空を見上げながら走り出した。
「おい! どうしたんだよ!」
何が起きたのかわからず、視線の先にある空を見上げると上空に飛ぶ鳥ポケモンが見えた。あまりこの森では見かけないポケモン。ピジョンであった。
「――おい、あのピジョンもしかしてお前の――って居ない!?」
目の前にいたはずのコナーが居なくなり、キコリは左右を見渡した。すると肩に乗るイトマルが頭に乗ってきて足先で方向を指し示した。
「あっちに行ったのか?」
キコリはイトマルのことを信じてコナーが向かった方向に走り出した。眩しい太陽に目を細めながら、キコリな内心焦りを感じた。太陽が昇る方角といえば東である。
東にはアリアドスの縄張りが存在する。
「待つんだコナー! そっちに行くな!」
森に響き渡るように大声でキコリは叫んだ。しかし時既に遅くコナーは繁みに入り込んでいるところだった。
走る中で木々の間に蜘蛛の糸が垂れ下がっているのを見つける。アリアドスたちの縄張りが近いことを示している。
人が通ることで作られた人道は消え、その先は鬱蒼と木々が生えた暗い森が広がっている。今まで走ってきた森とは様子が違うことをキコリは肌で感じ取った。膝をついてぬかるんだ土を見ると、コナーの足跡があった。どうやらコナーはピジョンを追うために躊躇なく森に入り込んだようだ。
キコリはぬかるんだ地面についたコナーの足跡を辿って歩いた。辿って行くと地面の固さが変わたのか、途中で足跡が途切れてしまっていた。それだけでなく、丁度分かれ道に差し掛かる場所で足跡が途切れており、コナーがどちらに行ったのかわからない。
キコリが迷っていると、カモネギが左の道を指して鳴いた。
「こっちに行ったのか?」
力強く頷くので、キコリはカモネギを信じて左の道を進もうとした。その瞬間。
「うわあぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
コナーの叫び声が道の先から聞こえてきた。
「……カモネギ、お前はここで待ってろ。何かあったらすぐに逃げろ」
叫び声を聞いて、険しい顔でキコリは命令する。カモネギは眉間にシワをよせて黙ってその場に座り込んだ。キコリはその姿に片眉を上げるが、急いで叫び声が上がった場所に走り出した。
キコリが駆けつけると、そこには十数匹のアリアドスに囲まれ、絶体絶命のピンチにいるコナーが居た。コナーの隣には、糸で縛られているピジョンが横たわっていた。
「コナー!」
声を上げるとアリアドスたちの注意がコナーから逸れる。キコリの肩に止まるイトマルを見て、なぜかアリアドスたちは怒りの声を上げた。すぐさま標的を変えて、アリアドスたちはキコリの周りを取り囲んだ。
「……イトマル。ここにお前の親はいるか?」
肩に乗るイトマルに話しかけると、周りにいるアリアドスから一匹のアリアドスを指した。それは普通の個体よりも大きな体を持つアリアドスだった。キコリは思わず苦笑いを浮かべる
「よりにもよってボスの子かよ……」
どうりで群れの連中が気が立ってるわけだ――一人納得し、イトマルを地面に下すために手を近づける。
刹那、キコリの右頬に白い針が掠り、後ろのほうでビシッと枝が折れる音がした。次いでじわりと頬に鈍い痛みが走り、生暖かい液体が頬を伝っていく。
作業服の襟元に血が滲むのを、キコリは無表情のまま見つめた。頬から血を流すキコリを見て、コナーはぎょっとする。
ボスが口から糸を吐き出して攻撃してきたのだ。嘆息を漏らしながらゆっくりとキコリはしゃがんだ。
「イトマル。悪いが自分で降りてくれ。触ってほしくないらしい」
一際大きいアリアドスと目を合わせながらキコリは言った。相手は、ほんの少しでも子供に触ろうものなら次は外さないと睨みを利かしているようだった。
イトマルは躊躇しながらも、肩から降りて地面に着地した。その途端、アリアドスの群れが二手に割れて大きなアリアドスに続く一直線の道を作り出す。
たびたびイトマルは後ろを向いてキコリを気にしながら、親の元へと向かった。
イトマルが親の元に戻るのを見届けると、群れのアリアドスはキコリににじり寄った。子供をさらっと勘違いされてるのか、かなり怒っている様子だ。
どうするか考えてると、イトマルが高い声で鳴きはじめた。なにかをアリアドスたちに訴えている。
親のアリアドスと鳴きながら言い合いをしていた。しばらくして、ボスのアリアドスが鳴くと、アリアドスはキコリから離れる。ほっとしたのもつかの間、今度はコナーが狙われることになった。
「待て! そいつはお前たちの群れを攻撃しに来たんじゃない。迷い込んだだけだ!」
キコリはアリアドスたちの誤解を解こうと説得を試みた。しかし、アリアドスたちは皆興奮しているのか、キコリの話を聞こうとしない。キコリが立ち上がろうとしたら近くにいた一匹のアリアドスに牙を向けられる。
「くっ」
「キコリさん!」
コナーは悲痛な叫びを上げる。ピジョンを抱えて顔を覆った。
「止めろ。やめてくれ!」
キコリが懇願し叫ぶ。すると、突然アリアドスたちの動きが止まった。正確に言うと、何かの力で身動きを封じられたのだ。群れの中でひときわ大きなアリアドスだけは動けるのか、ある一点の木を見つめて唸り声を上げる。
その木々の上に、紫色をした色違いのアリアドスが逆さまの状態で枝につかまっていた。
色違いは何かを告げるように鋭く鳴く。大きなアリアドスが不満げに返答するが色違いは首を振る。
両者はにらみ合い、それから長い沈黙が走った。
しばらくして大きなアリアドスがため息を漏らす。不承不承と群れのアリアドスたちを下がらせたのだ。キコリがそれに驚いていると、どこからか鋭利な針のような糸が飛んできて音もなく足元に突き刺さった。それを見てコナーは悲鳴を上げる。声が煩かったのか、おとなしくなったアリアドスたちが苛立ちげに鳴いた。
キコリはゆっくりと色違いを見上げる。色違いのアリアドスは、先ほどの鋭い眼差しと違い、キコリに嫌悪の視線を投げかけていた。その視線の意図を知り、キコリはコナーに歩み寄った。
「……怪我はないか?」
「はっはい……あのキコリさん」
「黙ってろ」
キコリの低い声にコナーは思わず黙り込む。
「――荒らしてすまなかった」
キコリは謝罪の言葉を言う。大きなアリアドスがはやくいけと言うように通る声で鳴いた。その声を聞いたアリアドスたちは二人から離れ、通れるように道を開けだした。その光景にコナーは目を丸くする。
「――コナー、ピジョンを戻せ」
キコリの冷淡な口調に、コナーは怯えながらボールを取出しピジョンを戻した。
それを見たキコリは荒々しくコナーを肩に担いで、踵を返してアリアドスたちから立ち去った。
その後ろ姿を色違いのアリアドスと大きなアリアドスは、見えなくなるまで目で追っていた。